先日、ご近所で訃報があり、告別式に行ってきました。
実は私は、ご近所でのお付き合いとしての訃報は、
受付に自分で香典を届けることはしても、
式に参列し、お経まで聞いてくることはありません。
たいていが、会ったことのないお年寄りだったりするので・・・。
でも今回は、会ったことも話したこともあるおじいちゃんで、
普段からそのご家族に大変よくしてもらっているので、
今回はしっかり焼香もして来ようと思って出かけました。
お経というのも、久しぶりに聞きましたが、
お坊さんは真言宗で、
私も、先月までいっしょうけんめい仏教の勉強をしていたのでお経に耳をそばだてていました。
言っているお経の意味はもちろんわかりませんでしたが、
いろいろ、作法通りに弔う様子を客観的に観察していて、
勉強したこととリンクする部分が多々あり。
真言宗の真髄については授業でもいろいろと突っ込んで書いてあったので、
目で追いながら、さらに耳も働かせて考えさせられました。
どんなことでも、知っているのと知らないのとでは、
ものの見え方は全く違うものですが、
お経についてもそうだなあと感じました。
放送大学はコースは6つあるんですけれど学部としては「教養学部」しかありません。
「教養」「勉強」って聞くと、なんともたいそうでカッコつけた響きに感じられてしまいますが、
じつはそうではなくて、
暮らしの中のいろいろなことに種をまくことなんだな、
と感じます。
知識と、教養と、それに経験が加わるとだいぶ完全形になりますね。
”その場面”に出会うと、種は発芽します。
ほんらい、勉強ってそういうものなんだろうな、
大人になってからでも全然遅くないよな、と
しみじみ思った一コマでした。