イバラキ農村風呂

ゆっくりしてけ~

分岐点

東日本大震災が起きたとき、

心の底から、

人間がいかにちいさなものか、

毎日そこにあると思っていた日々そのものが、

どれだけ奇跡のようなものか、

しんとした気持ちでかんがえました。

福島第一原発が大事故になったとき、

文明なんて妄想だ、と

心の底から、自分への情けなさがこみ上げました。

故郷の海と土を汚された悔しさは、

私より夫のほうが何倍も強かったことでしょう。

 

分岐点はいくつもありました。

東日本大震災のあと、

にほんじゅうで、

いろんな真剣な気持ちを持った人たちが、

今まで踏み切れなかったことにどんどん気付きはじめ、

新しいコミュニティーが生まれ、

つながりが心をあたためるような出会いがたくさんあり、

そういう様子を見ていて、

「にほんは、ずっと臆病で変われないでいたけれど、

 きっとこれから、大事なことに気がついて、

 暮らしは変わって行くにちがいない」

そう確信していたのです。

くらしはお金じゃない、

お金で買えないものはいっぱいある、

みんながそれに気付いたはずでした。

 

原発がどこも運転しなくなれば、

電気が足りなくなりますよとおどされ続け、

不便はいやだなあとみんな思っていたけれど、

それでも、

夏も冬も、

電気は足りていました。

原発がとまっても、電気は足りていました。

 

分岐点はたくさんあったにもかかわらず、

原発は今秋にも動き始めることになり、

そして昨日。

ほんの一部の、

ほんのほんの一部の人たちの「裕福」のためだけに、

命を売る法案が可決になりました。

 

私たちは、

お金より命が大事だって知っています。

私たちお母さんたちはもっともっと、

子どもたちの命が、

どのくらい尊いものか、

身にしみてわかっています。

 

学校の教科書で平和をおしえ、

その教科書を検定している文科省が、国が、

武器を作るだなんて、外国の戦争に参加しろと言うだなんて、

そんな曲がった話があるでしょうか。

 

”公共放送”とうたって、

あまねく全員からお金を集めて運営している放送局が、

歴史の分岐点となるような国の会議の中継をしないなんて、

こんな曲がったことがあるでしょうか。

 

なぜ、

自分の国のことなのに、

一切の国民投票さえゆるされないのか。

学者がこぞって間違いだと指摘しても、

法案が可決してしまうのか。

国民がもし全員反対だと言っても、

政治家の意のままに物事がすすむだなんて、

そんなの、民主主義でもなんでもありません。

 

数々の分岐点に立ちあいながら、

結局、

お金に心を売り続けた結果が、

これなのです。

心のどこかで、

貧しさへの恐怖があり、

貧しさを経験したことがないための不安が、

弱みとなって握られているということです。

 

ウルグアイの大統領が、言っていますよ。

『貧乏とは少ししか持っていないことではなく、

 無限に欲があり、

 いくらあっても満足しないことです。』

 

決してあなたもわたしも、

お金がないくらいじゃ、貧しくなんかならないんですよ。

ほんとうは、そうなのです。

だから、こわがらなくてもいい。

 

テレビは、嘘をつきます。

教科書も、嘘をつきます。

子どもたちの心への、

平和の種まきこそが、

揺らいではいけない。

操作されてはいけない。

ひとの親として、ここの国の大人として、

心に誓わなければいけない分岐点が、今なのではないでしょうか。