イバラキ農村風呂

ゆっくりしてけ~

深川のおばあちゃんの昔話

去年から行くようになった、デイサービスでの出張講座ですが、

ありがたいことにまだ続いています。

みんな私の顔を覚えてくれ、名前は覚えてないけど会えば

「お習字のせんせ〜」

と歓迎してくれます。とっても嬉しいです。

 

それで、昨日はいつもとっても達筆で上手な作品を仕上げてくれるおばあちゃんが

私が手本を書いている隣にたまたま座っていて、

「お手本はなんのお題がいいですか?」

と訪ねたら、

「東京」と。

ほう、東京ね、と目の前で書いたら、

「私の故郷だわ」

とにっこり。

「東京のどちらですか?」

と聞いたら、「深川です」

というではありませんか。

あらま、どうも上品だと思っていたら本所の生まれとは!

生粋の江戸っ子じゃござんせんか。

「Nさんはいつも上品で垢抜けているし素敵だなって思っていたんですよ。

 本所生まれと言われて納得ですよ。」

と返答したらとてもうれしそうにして、私が書いた”東京”という手本を受け取っていきました。

それで、

「本所じゃあ、空襲も大変だったでしょう。みなさん無事で?」

とたずねたら、

「うちの父親がね、親戚から”こんなとこ居たら死んでしまうぞ”って、

 昭和19年のうちにこっち(茨城県)に疎開したの。

 だから家族全員、きょうだい6人全員助かった。」

まあ・・・・!!!そんなすごすぎるファミリーヒストリー

「私がここ(茨城県)に来たときは、利根川に橋がかかってなくてね。

 あっちの岸からこっちの岸まで、ただの板が渡してあったの。

 それを歩いて渡るのよ。こわかったわね」

「それは、Nさんが10歳くらいの頃の話ですか?」

とたずねなおすと、

「いいえぇ、私は来月で97歳ですよぉ」

と笑うではありませんか!!!これにはびっくりですよ。

どうみても80歳くらいにしか見えないんですから。

「こっちに来たときはもう18歳よ。それでこっちで結婚して今ここに居るんです。」

と柔らかく微笑むではありませんか・・・・

なんかもう、生きてきた歴史をひしひし感じて胸が一杯になってしまいました。

この目の前のおばあちゃんと、もしもどこかひとつでもパズルのピースが違っていたら

私はぜったいに出会わなかったんであろうという事実が、なんかものすごい奇跡に思えて。

「50キロ爆弾がね、私が汽車のホームにいるときに、あっちのほう(富樫、と地名を言ってました)に落ちたんですよ。

 それをね、目をつぶらなくたって、私はこうして目をあいてる今だって思い出せるのよ。」

そしてNさんのお父さんは、すぐに決心をして荷物をまとめて疎開したんだそうです。

製材所をやっていたとのことですから、そこも畳んで田舎へ来たんでしょう。

相当の決心が必要だったと思いますが、命あればこそと家族8人で大移動したのでしょうね。

一瞬の判断が、命運を分けるときがあるけれど、

やっぱり、決断力ってものすごい大事だなとこの話を聞いてつくづく感じました。

 

爆弾が落ちてね、じゃなく”50キロ爆弾が”とはっきりと言ったおばあちゃんの言葉に、

当時を生きた人のリアルがにじんだ気がしました。