昨晩の電話。
きとく連絡。
そう、危篤です。
母ちゃんの危篤連絡に、
泣かないはずだったサムライくんはぼろぼろ涙をこぼし、
声にならない声で、電話の声に相槌を打っていました。
診断からたったの2週間足らず。
それで危篤だなんて、誰だって、心の準備なんかできるはずありません。
とんぼがえりで会ってきた3週間前の、
お母さんのしみとおるような笑顔を思い出すと、
あれが最後になっちゃうのかと思えてきて、
私もサムライくんも涙がぼろぼろ止まらなくて、
そうしたら、
ふざけっこしていたチビ太とちゅーたんが私たちのところにやってきて、
泣いている私たちの頭をなでてくれました。
「だいおーぶ?(だいじょーぶ)、いいこね」
ちびっこ二人のやさしい気持ちに、
また涙。
”ああ、ひとがしぬって、こういうことなんだな”
長男と娘の大きい二人は、
そばで、私たちを見守ってくれていました。
父さん、ひとりにしてあげよう、
と、子どもたちと私でお風呂にはいったあと長男が湯船につかりながら
「高萩ばあちゃんがしんじゃうってことは、おれにとったら、つまりここにいるお母さんがしんじゃうってのと同じことなんだよね・・・」
とひとりごとのように言っていました。
***
私が幼いころ、近所にはひいじいちゃんとひいばあちゃんが住んでいました。
今思うと長寿の家系で、
ひいじいちゃんとひいばあちゃんは、90歳を過ぎても生きていました。
二人とも自宅で亡くなり、老衰でした。
お葬式は自宅でした。
ひいじいちゃんが亡くなった時は私は10歳であまり記憶にありませんが、
ひいばあちゃんが亡くなったとき私は中学生でした。
ひいばあちゃんのきときは、朝がたに亡くなって、
まだふつうの布団に寝かされているときに会いに行きました。
顔色もまだ少し白いくらいで、
ああ、まだ生きているみたいだな、と思いました。
納棺師の方が来て、ひいばあちゃんがお棺に納められていく様子の一部始終を、
畳の隅っこに座って、姉といっしょにじっと見ていました。
みんなが、かわるがわるひいばあちゃんに声をかけて、
悲しい雰囲気はなく、
いつも着ていたこの着物を羽織らせてあげたい、
と、白装束の上から、いつも着ていた茶色っぽい緑色の着物を、
家族が逆さまにかけてあげていた姿を思い出します。
じいちゃんが胃がんでたった64歳で亡くなったときは本当に悲しくて、
この世にこんなに悲しいことがあるのかというくらい家族みんなで昼夜泣きました。
亡くなる直前に、意識もほとんどなく食事だってとれずもう点滴だけだったというのに、
急に正気になり
「寿司がくいたい」
とはっきり言ったそうで、
家族は「ああ、寿司をひとくちでも食わせてあげればよかった」
と葬式のあいだ、思いだしては言っていました。
(あれから20年も経った今思うと、今際のきわに「寿司がくいたい」ってのはいいセリフだな、と思います。)
ひとがしぬ、ということを、
うちの子どもたちなりに、
今、ひしひしと肌で感じているところなんだな、と
私はおもっています。
小さい園児たちはさすがにはっきりとした記憶には残らないでしょうが、
きっと、感覚として、
そのとき、感じたものは残るのではないかと。
どんな子どもも、
母ちゃんから生まれ、
育っていく。
その母ちゃんがいなくなるのは・・・・・
どんなドラ息子も母ちゃんにはかなわない。
そう思うとしみじみ、
自分自身が元気でいなけりゃ、
と痛感します。