治らぬ病気の、夫の母は小康状態で、
今は投薬治療でずいぶん落ち着いています。
自宅で普通に暮らしているし、
入院の予定もなし。
去年の危篤が嘘のようです。
でもお母さんは
「このまま、薬のおかげだけで長く生きていて、
お金もたくさんかかって(薬価が高い薬なのです)、
このままじゃお父さんの貯金みんな使っちゃうし、
なんか意味があるのかなって・・・。
あと1年も生きたら、薬やめにしようかなって思って。」
と、少し前に、息子(つまりうちの父ちゃん)に電話で言っていたそうです。
うちの父ちゃんはちょっとショックで何も言えなかったみたいだけど、
私はそれを聞いて、この期に及んでお金の心配なんてしなくていいのに~、と切なくなりました。
正直なところ、お金なんて高額医療費のシステム利用でそこまで負担にならないようになっているし、
それに、聞けば月2~3万円だというのです。
60歳を過ぎてようやくもらえるようになった年金で全部まかなえるじゃない?
と思ったので、
お節介とは思いつつも、あとになって電話しました。
(このあたりの気持ちが、嫁、というよりは、娘、に近い感覚。)
「おかあさん、生きててくれてるだけでいいよ、
毎日会えない場所だけど、
わたしらはおかあさんが、生きててくれてるってだけで、
安心して暮らせるんだよ。
お金の心配してるみたいだけど、
お父さんの貯金崩さなくても、
お母さん、自分の年金ぜんぶ突っ込んで、
自分の年金で自分の病院代出してるんだから、
生きててなんか文句あんのって、
威張っていりゃいいのよ
だから心配しないで、生きてていいんだからね」
そうするとお母さんは笑って、
「ああそうだね~ ほんとだねー」
と元気そうに言いました。
私は、義母のことがあってから、
”60歳から先はおまけ”
だと思って生きようと思うようになりました。
つまり、自分が還暦になる暁には、
そっからさきは、もともとなかったもの、
という段取りにしよう、と。
だから、放送大学への入学も、
「子どもが育ってから・・・」
なんて先延ばしにしないで、思い切って決めたのでした。
今、自分自身はまだ若くて元気なので、
未来永劫生きられないとは理屈でわかってはいても、
20代から30代へと連綿と続いてきたこの「大人になってから」の日々が、
ずっと続くような錯覚を覚えます。
今、渦中の子育ても、
いつかは終わってしまう祭りのようなもので・・・
ただ実際にはあと10年以上もあるので、
ドンチャン騒ぎが終わる気配すら不明です。
つい目先の大変さと忙しさに振り回されてしまう自分がいますが、
でも、子育てだけは、
やっぱり今の祭りを楽しまないと、
あとになってからじゃそうはいかない、と思っています。
てんやわんやの食事風景も、
日々のきょうだいげんかも、
「あ~、大家族的だ。ビデオで定点観測したらさぞ面白かろう。」
という気持ちで客観的に眺めると、
だいぶ楽しめます。
日々をつらねるということ。
どこかで、
変化や、成功や、はなやかなことを思い浮かべがちですが、
実は、今こそが大事なんであって、
今を楽しめなきゃ、イミないじゃん!!
と思います。
だから、私は、お金もかなり上手に使えるようになりました。
ずいぶんな貯蓄魔だったけど、
ちゃんと、今のための投資を見極められるようになりました。
ケチな部分は相変わらずですが、
子どもの、その時の興味にあった本選びだけは、
ほんとうに見極め上手になりました。
なんでもない毎日こそが、
じつはいちばん素敵だってことです。
今日も、あたらしい朝がきました。