イバラキ農村風呂

ゆっくりしてけ~

作家・映画監督 ”森達也さん”の文章

作家であり、映画監督でもある森達也さんの文章。

加入している生協の会報誌に載っていたものが、

とても良かったので、

一部、転記します。

以下。

 

***

「報復の連鎖を止める成熟社会」

 テレビの仕事で2009年にノルウェーの首都オスロにある刑務所を訪ねたとき、

囚人に対する寛容な処遇に驚いた。

欧州のほかの国と同様に死刑が無いことは当然として、

無期懲役も廃止されて最高刑は禁固21年だ。

ところが再犯率はとても低い。

なぜなら懲役を終えて出所の際には、国が住居と仕事を保障するからだ。

罪を犯した人の社会復帰を最優先順位に置く慣用化政策に寄って、

ノルウェーの治安はとても向上した。

ちなみに僕がノルウェーを訪れた翌々年、オスロで大規模なテロが起きた。

犠牲者数は77人。

うち69人はサマーキャンプ中の子どもたちだ。

生き残った一人の女の子はメディアからの取材に対して、

「一人の男がこれほどまでの憎悪を見せるのなら、

 私たちはそれを上回るほどの愛情を示しましょう」と語り、

首相は国民向けスピーチでこれを引用した。

77人を殺害したアンネシュ・ブレイビクに対して裁判所は、

原則通り禁固21年の判決を下した。

獄中のブレイビクは大学で教育を受けたいと希望して、今はオスロ大学生だ。

・・・・・これだけの記述では、あまりにも日本の現状とかけ離れていてイメージしづらいと思う。

でももしも実際に北欧を訪れたことがあるならば、

きっとあなたも実感できるはずだ。

人はみな優しい。

暴力に対して暴力で報復しても連鎖するばかりだとの意識を、社会全体が共有している。

(中略)

この6月も北欧の国々に滞在した。

成熟した社会と政治を実感した。

街で警官を見かけることはめったにない。

そもそも警官は武装していない。

テロ警戒中の貼り紙もない。

帰国して早々に、日本では「対テロ」を錦の御旗にして「共謀罪」が成立した。

不安や恐怖を煽りながら暴走する政治。

これを追認するメディア(今ごろ騒いでも遅い)。

徹底して無関心な社会。

(以下略)

生活クラブ生協 生活と自治 8月号 連載「停止しない思考」より>

******

 

この文章を8月初旬に読んでから、

ずっとずっと、何度も思い出していました。

テロに襲撃されながらも、

これほどの言葉をつむげるという女の子のことにまず私は度肝を抜かれました。

子どもがこれを話すということは、すごいことです。

人格によるものももちろんあるかもしれないけれど、

この国の教育のありかたを表しているんだとすぐに思わされました。

さらに、欧州にはもうほぼ死刑はないことは知識としてあったものの、

終身刑はおろか、最高21年しか懲役がないこと、

出所後の生活が保障されていること、

大学に入学できる?!!

信じられない、と思いました。

そしてそれが功奏して再犯率が低い・・・・・

 

どうして私が、今この文書を引用し、

こんなことを書いているかというと。

昨日、聞いたこともないアラームが早朝の携帯から発せられ、

おどろかされたからです。

地震ではない何かであるとすぐに察せられ、

携帯を取りに行く間も惜しく、何に対して鳴っているのかもわからないまま

起きていた子どもたち3人と手を繋ぎました。

チビ太を長男に抱っこしているよう頼み、

寝ていたちゅーたんを抱っこで起こしてみんなのいるところまで運び、

揺れがこないので(地震だと半分思っていたので)、

おそるおそる携帯を取りに行くと、

信じられない文言が携帯に書いてあるではありませんか。

なんじゃこれ!

 

外で仕事の段取りでハシゴを積み込みしていた父ちゃんに携帯を渡すと、

「はあ?!」。

ほんと、はあ?!だよね。

 

テレビをつけると、「通過には、発射より10分ほどかかると思われます」

とのアナウンス。

 

ああ、できることはないや、と思いました。

10分あったって、ほんとに万が一のときはなにもできゃしない。

子どもたち全員と一緒にいるだけだ、

みょうに悟った気持ちになりました。

長男が

「なんでこんなもの飛ばすの?」

と質問してきたので、

「”おれには、力があるぞ”、と見せつけたいということなんだろうね。

 真意はわからないね。

 ただしもっと間違っているのは、

 ”これに対抗するために、自分のところにも、もっとすごいものを用意しましょう”と考えることだよ。

 それは、間違っている考え方。」

と説明しました。

話しながら、先述の森達也さんの文章を、心の底から思いだしていました。

 

 

父ちゃんのつくりかけの弁当。

回りつづけている洗濯機。

敷いたままのぐちゃぐちゃの布団。

昨晩から出たままのおもちゃ。

 

もし日常が奪われるということは、こういうことなのか、

別の世界から自分の家を見ている気持ちになりました。

 

こういう日常が、今このときにも奪われている国が、

せかいじゅうにはある、ということも同時に感じました。

 

もし、”晴天の霹靂”で私の存在が土に返るとしたら、

私自身は、そこに何の感情もないだろうと思います。

無に帰すだけ。

昨日の朝の出来事をきっかけに、さらに悟りが深まるところがありました。

 

人生は、一度きり。

おまつりのようなものですね。