「日本仏教を捉え直す」という科目を今学期とっています。
おもしろいな~。自己満足ですが。
知ってたようで知らないことがざくざく。
日本人は、土着信仰として「カミ」は、かなりの古代からあったそうです。
いわゆる「やおよろずのかみ」ってやつですね。
千と千尋の世界ですね。
それが当たり前すぎて、宗教という認識はなかったそうです。
そりゃそうだ。
私たちも、未だに「うじがみさま」という認識はありますね。
信仰心がきわめて薄い私でも、氏神様には初詣に行きます。
この場所に、土地に住まわせてもらっているという気持ちが、どこかにあります。
仏教も儒教も5世紀ごろ中国から日本へ輸入されてきたそうです。
儒教は政治をする人たちの、政治的な理念と道徳を示す内容であったために、
当時日本にいたエライ人たちにめっちゃ賛成され、簡単に受け入れられたらしい。
(エライ人ってのは、いつの時代も変わらないんだね。自分の都合のいいとこだけは積極的。)
ちなみにEテレの”にほんごであそぼ”なんかでやってる、
『仁、義、礼、智、信』っていうあれは儒教の教えです。
南総里見八犬伝では、この5つを含む(八犬だから、あとプラス3つあったんだね)数珠の玉が散らばりますね~。
江戸時代は儒教の時代だったそうですよ。儒教が身近だったからこそ生まれた物語なのかな。
で、仏教。
伝来当時仏教は、「インドからの外国の神様」として受け取られ(仏なのに、神さん扱いになっちゃってるとこが面白い)、
中国の王さまが日本の天皇に経典と仏像をプレゼントしてくれたらしいのですが、
当時、皇居が火事になったり疫病が蔓延したりして、
こりゃプレゼント品のタタリじゃ~となり
「仏像、ヤバい!!」
と海に投げて捨てたらしい(笑)。
仏様は神ではないので祟らないはずなんですが、
祟りと思ったのがまたミソで。
そのくらい、日本では「やおよろずのかみ」が当たり前だったってことなんですね。
人間がコントロールできないもの、つまり自然災害=天災はすべて祟りだったんでありましょう。
それがおこらないように祈る気持ちが、やおよろずのかみを信じる心だったようです。
このあたりは科学が発達した現代でもじゅうぶんそういう気分はあると感じますよね。
不思議ですね~
人間って本質的に変わらないもんなんですね。
ここで、時代の変遷で聖徳太子が登場します。
聖徳太子のころは、学校でも習う「大化の改新」の時代なわけで、
日本という「国」ができあがっていく途中であり、
お隣さんの、朝鮮半島でも「国」ができた。
で、どんな国にするか話しあう必要が出て来て、
「ルール作んないとまとまんないよね~」
ということで編み出したのが、
有名な”十七条憲法”。
白紙から作るのはさすがにムリ~難しい~!となって、
すでに存在していた中国の国のひとつにあったルールをまねしたんだそうです。
(当時、中国はいろんな国に分かれてた。三国志っすね。)
ここでいきなり話は新元号に飛びますが。
新元号には「和」
の文字が入ってます。
十七条憲法の有名な一文に
”和をもって貴しとなし”
という文がありますが、
この「和」をどうも
「自分の意見はガマンして人に合わせるべし」
という解釈が現代ニッポンにある、これはまずい、
と放送授業で教授が指摘していました。
そういう解釈で子どもに「和」を叩きこむと、
”聖徳太子の古代から日本人は和を大事にしていたんだ、きみたちもまわりに合わせなさい”
という教育になっちゃう。
でも、実際に聖徳太子が言っていた「和」は
「人にこびたり、へつらったりしないで、
自分の意見はしっかり持ち、その上で人の意見を聞く。
それが調和をもたらす」
という意味だったと。
その考え方を裏付ける証拠として、
当時、聖徳太子を中心として、官僚たちは会議でどの人も平等に扱われていたということでした。
あたしゃ、一貫性のある西暦のほうが使いやすいのでなんでも西暦で書く主義ですが、
元号がこれからどんどん浸透していくこの先、
「和」という言葉に利用されないように気をつけたい、
と思った次第です。
個性がなきゃ、ハーモニーは生まれない。
”自分”をちゃんと認識することで、人とも調和できるってことです。
”自分”がなきゃ3回も断れないよな。
さすがです!